イチロー、阪急、あの日の西宮球場Ⅱ
お前が好きなビートルズの歌やろ?」
私が中学生のある日、父はそう聞いてきた。
(このとき、ビートルズはすでに解散していたが)
「あのようなジャズは・・・」と父は続けた。
私は、思わず憤慨してしまった。
何かバカにされたような気になった。
昭和一桁生まれだった父は、
過ぎなかったのだろう。
父の感じ方と、ビートルズを好きで聴いた私とでは、
相通ずるものがほとんどなかった。
そんな親子でも、二人とも阪急ファン。
それだけは、なぜか同じだった。
その歴史に幕を降ろすことになった。
オリックスに身売りされることが決まったのだ。
私が25歳の秋だった。
私は最終戦だけは観る決心をし、
気のおけない友人たちと、久方ぶりに西宮球場へ行った。
往年の名プレーヤー、阪急の顔とも謳われた両雄、
それに呼応するように、阪急は優勝戦線から早々と脱落していた。
強かった阪急の面影はすでになかった。
悲愁・・・この日、スタンドに吹き付けた秋風は、
殊のほか冷たく感じられた。
私はやや遅れて球場に入り、三塁側の二階席に着いていた。
そう、さすがに今日という今日、西宮球場はほぼ満員になったのだ。
一塁側に入る余地は、すでになくなっていた。
当時の西宮球場には、
その場所でピッチャーが投球練習するのだ。
ブルペンで肩馴らしをするはずだと見当をつけ、
右翼側の外野席前列に移動した。
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やはり、ブルペンに向かうのだ。 そう思った瞬間、一塁側のスタンドが揺れた。 にじり寄らんとして迫り降り、 二階からもんどり打って落ちそうになっていた。 誰もがそのことを知っていた。 私は思う。 阪急の長い歴史の中で最も凄いものだった。 ヤマダの名を連呼したりした。 阪急にも、こんなにたくさんファンがいたのだ。 それを想うと、侘しかった。 観客の熱気がこもったのか、秋の夕暮れに白い靄が立ちこめ、 ナイターの照明が滲んで見えた。 こうした異様な雰囲気の中で始まった。 それは、私が西宮球場で見る、初めての熱狂だった。 その夜、私はふいに思い出していた。 何のことはない、普通の親子なら誰もがやる、 ごくありふれたキャッチ・ボールだった。 だが、回数だけはこなした。 真冬を除いて、それは毎週日曜日のことだったから、 数年間で百回以上、父と子のキャッチ・ボールは続いたと思う。 できれば、阪急の選手になりたい・・・。 そんな夢みたいなことが頭にあって、 野球の練習は結構やったクチだ。 今振り返ってみると、そんなことよりも、 父がどういう気持ちで、 私とキャッチ・ボールをしてくれたのか、 その方が気になる。 父は、息子の投げ方がだんだんサマになっていく様子や、 肩が強くなっていくのを実感して、誇らしく思ったのだろうか。 私が投げたボールをしっかり受け止めながら、 私の成長を見守ってくれていたのか・・・。 だが、そんな大切なことに私が気付くのは、 ずっと、ずっと、後のことなのだ。 (Ⅲへつづく) 写真は、若き日の福本豊選手です。 私は、阪急ブレーブス子供会の会員でした。 1年に一度くらいでしたか、グランドにて撮影会がありました。 ある日、参加して撮った写真です。 西本監督や他の選手も撮ったのですが、この一枚しか残っていません。