シンプル・イノベーション (Simple Innovation)

複雑で込み入った事象の単純化にトライ & 新しい発見を楽しむブログ by こうのすけ

イチロー、阪急、あの日の西宮球場Ⅱ

 

Ob-La-Di, Ob-La-Daって、

お前が好きなビートルズの歌やろ?」

私が中学生のある日、父はそう聞いてきた。

ビートルズと彼らの音楽に衝撃を受けた私は、なんというか、

野球(阪急)からがビートルズの方へ軸足が傾きつつあった。

(このとき、ビートルズはすでに解散していたが)

「あのようなジャズは・・・」と父は続けた。

ジャズ? あれが、ジャズに聞こえるのか・・・。

(昔のスイングジャズに似てなくもないが)

私は、思わず憤慨してしまった。

何かバカにされたような気になった。

それ以来、わが家では、ビートルズの曲は全てジャズなのだ。

昭和一桁生まれだった父は、

最期まで「ロック」という概念を知らずに過ごしたと思う。

一番多感な頃に、大戦と終戦を経験した父にとって、

ビートルズなど、ジャズと何ら変わらぬ舶来音楽のひとつに

過ぎなかったのだろう。

父の感じ方と、ビートルズを好きで聴いた私とでは、

相通ずるものがほとんどなかった。

そんな親子でも、二人とも阪急ファン。

それだけは、なぜか同じだった。

 

 

昭和年号の最後の年、阪急ブレーブスは、

その歴史に幕を降ろすことになった。

オリックスに身売りされることが決まったのだ。

私が25歳の秋だった。

私は最終戦だけは観る決心をし、

気のおけない友人たちと、久方ぶりに西宮球場へ行った。

 

 

当日は、二試合ダブルヘッダーが組まれていた。

第一試合は、阪急がロッテに負けた。

阪急がプロ野球界に存在したその最後のシーズン

首位西武に大きく離された阪急は、Bクラスに甘んじていた。

往年の名プレーヤー、阪急の顔とも謳われた両雄、

福本・山田の両ベテランも肉体の衰えを隠せず、

それに呼応するように、阪急は優勝戦線から早々と脱落していた。

強かった阪急の面影はすでになかった。

悲愁・・・この日、スタンドに吹き付けた秋風は、

殊のほか冷たく感じられた。

私はやや遅れて球場に入り、三塁側の二階席に着いていた。

そう、さすがに今日という今日西宮球場はほぼ満員になったのだ。

一塁側に入る余地は、すでになくなっていた。

 

 

第二試合は、山田投手の先発が発表されていた。

当時の西宮球場には、

まだラッキーゾーン右翼席前と左翼席前にあった。

そのラッキーゾーンブルペンになっており、

その場所でピッチャーが投球練習するのだ。

私は、山田投手が先発の前に、

ブルペンで肩馴らしをするはずだと見当をつけ、

右翼側の外野席前列に移動した。

 

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山田投手がベンチから出たのが見えた。

やはり、ブルペンに向かうのだ。

そう思った瞬間、一塁側のスタンドが揺れた。

二階席の客などは、グランドの袖を歩く山田投手に向かって、

にじり寄らんとして迫り降り、

二階からもんどり打って落ちそうになっていた。

山田引退の文字が、新聞紙上ですでに踊っており、

誰もがそのことを知っていた。

私は思う。

この時、山田投手に向けられた観客の興奮と絶叫は、

阪急の長い歴史の中で最も凄いものだった。

あの名投手山田が、阪急最後の試合に投げるのだ。

言葉にしようもない衝動を誰もが感じ、叫ぶなり、泣くなり、

ヤマダの名を連呼したりした。

阪急にも、こんなにたくさんファンがいたのだ。

それを想うと、侘しかった。

観客の熱気がこもったのか、秋の夕暮れに白い靄が立ちこめ、

ナイターの照明が滲んで見えた。

山田投手と阪急の最後の試合は、

こうした異様な雰囲気の中で始まった。

それは、私が西宮球場で見る、初めての熱狂だった。

 

 

その夜、私はふいに思い出していた。

私がビートルズ聴く前、つまり小学生までは、

父とふたりで、よくキャッチ・ボールをしたことを。

何のことはない、普通の親子なら誰もがやる、

ごくありふれたキャッチ・ボールだった。

だが、回数だけはこなした。

真冬を除いて、それは毎週日曜日のことだったから、

数年間で百回以上、父と子のキャッチ・ボールは続いたと思う。

小学生の私は、野球選手になりたい、と少し本気で考えていた。

できれば、阪急の選手になりたい・・・。

そんな夢みたいなことが頭にあって、

野球の練習は結構やったクチだ。

 

 

今振り返ってみると、そんなことよりも、

父がどういう気持ちで、

私とキャッチ・ボールをしてくれたのか、

その方が気になる。

父は、息子の投げ方がだんだんサマになっていく様子や、

肩が強くなっていくのを実感して、誇らしく思ったのだろうか。

私が投げたボールをしっかり受け止めながら、

私の成長を見守ってくれていたのか・・・。

だが、そんな大切なことに私が気付くのは、

ずっと、ずっと、後のことなのだ。

 

 

(Ⅲへつづく)

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写真は、若き日の福本豊選手です。

私は、阪急ブレーブス子供会の会員でした。

1年に一度くらいでしたか、グランドにて撮影会がありました。

ある日、参加して撮った写真です。

西本監督や他の選手も撮ったのですが、この一枚しか残っていません。