イチロー、阪急、あの日の西宮球場Ⅰ
イチロー、阪急、それから私の父の思い出を書きました。
少々長いので、3日に分けて掲載します。
その日、少年はついに現れなかった。
阪急夙川駅の改札前で落ち合うはずだった。
━━━昭和某年秋、学校が終わったあと、
その言葉を私は単純に信じていた。
急に都合が悪くなったのか、何らかの家庭の事情で
来れなくなったのか・・・。
いずれにせよ、改札前に姿を現さなかった事実が、
私の気分に蓋をした。
だが、裏切られた悔しさは、不思議と感じなかった。
そんなこととは別に、
人は、口で言っていることと本心は、実は全く違う。
そのことを知って、私は幼いながらに、
生きていくことの苦味を初めて噛みしめた。
関西では圧倒的に阪神ファンが多い。
私は関西育ちだが、私が小学生だったころ、
自分は阪急ファンと言おうものなら、
変わったヤツと必ず言われた。
当時、阪急の試合がテレビ中継されるなんてことは皆無だった。
ゆえに、中継されない阪急の試合を観るためには、
実際にホームグランドへ脚を運ぶ他なかった。
阪急沿線に住み、電車で球場まで一駅という近さもある。
父は、阪急の試合を観に、
私を伴って西宮球場へ出掛けることがあった。
1972年頃と思う。 当時の阪急は強かった。
10連勝以上などは、シーズン中に何度もあった。
しかし、客は入らなかった。
二階席はガラガラというより、無人といった感じで、
ダミ声がよく響く応援団長ひとりが目立っていた。
人が未だ知りえぬ秘密の宝物を共有しているような、
不思議な連帯感があった気がする。
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思春期という少しややこしい時期に入り、
野球の他にも、私には好きなものができた。
あるいは、女の子だったりした。
そういうものに気が向き、私の足は、だんだん西宮球場から
遠ざかっていった。
かといって、阪急のことを忘れたわけではない。
わかっていた。 相変わらず、人気がなく、客が入らないのも
知っていた。 最後のころ、アニマルなんて名の、
変なガイジンがいたのは笑えたが・・・。
「阪急ブレーブス・イヤー・ブック」なるものを買い、
胸に抱えて彼女を待っていた。
やって来た彼女は、それを見てマジで飽きれていた。
阪急ブレーブスとは、どう贔屓目に見ても、
地元でさえ、そんな程度の扱いだった。
父も、やはり阪急ファンだった。
なぜ阪神ではなく、阪急なのか・・・。
その理由を聞く機会はとうとうなかった。
(Ⅱへつづく)