強い言葉、弱い言葉、そして、その先にあるものを考えてみた
昨日の記事を続けます。
未成年による事件が発生する度に、
あることが頭に浮かびます。
それは、「強い言葉、弱い言葉」というものです。
以下、短く引用してみます。
<引用開始>
先ほど私は、それを「戦後教育」の問題だと述べた。
もう少し具体的にいうなら、
それは教育の「言葉」の問題である。
そして、これは同時に「宗教」をめぐる問題でもあり、
根本的には「近代」というのもが宿命的に抱えている
問題だともいえるだろう。
では、私は教育におけるどのような「言葉」を問題視
しているのか。 結論からいえば、
いまの日本では総じて言葉が軟弱化している。
たとえば、これだけ凶悪な殺人事件が相次ぎ、
親殺しや子殺しなども頻発しているにもかかわらず、
どこからも「殺すな」というシンプルで厳しい戒めの
言葉が聞こえてこない。
その代わりに教育者、政治家、そしてマスコミに顔を出
す識者たちが口にするのは、「命を大切にしましょう」
という決まり文句だ。 実にソフトで、
そして弱々しい言葉ではないか。
戦後日本の精神性が、そこに集約されているといっても
過言ではない。
<引用終了>
(山折哲雄著「早朝座禅━━凛とした生活のすすめ」
(祥伝社新書)のP-26~27より引用しました)
以前、この文章を読んだ際には、私は「なるほど、
その通りだ」と唸りました。
しかし、今は違います。
問題は、もっとその先にあるのではないでしょうか。
つまり、誰かが強い言葉を言ったとして、
その言葉を説得力を伴って言える人が、
いったい何人いるでしょうか。
遜色ないと思います。
けれど、両名ともすでにこの世の人ではありません。
仮の話として、私が何かの理由で、
学校に呼ばれて、生徒さんを前にして、
話をするとなるならば、私は何を話せばいいでしょう。
強い言葉を私が言っても、
笑いしか起きないかもしれません。
いや、失笑さえも起こらないこともあり得ます。
想像すると、ゾッとします。
統計か、アバウトな話なのか知りませんが、
スーパーリッチと呼ばれる人口層が1%いるそうです。
この1%という数字を勝手に拝借してみます。
すると、強い言葉を言って、それが似合う人は、
日本ならば120万人はいそうです。
この数字、悲しむべきか、喜ぶべきか・・・。
私自身としては、強い言葉をストレートには言わない
と思います。
何を喋るかは、いま考えているところです。
ただ、“前フリ”だけは出来ました。
それは、「強い言葉、弱い言葉があってね・・・」
というものです。
ダメかな・・・。(汗)