シンプル・イノベーション (Simple Innovation)

複雑で込み入った事象の単純化にトライ & 新しい発見を楽しむブログ by こうのすけ

イチロー選手、他力の風に吹かれてみれば、

よく知られた話ではありますが、
イチロー選手が小学低学年時に書いた作文が秀逸
です。 将来、プロ野球選手になることや、
そのための決意、並びに計画がこと細かに綴られ
ており驚かされます。(その文章はすでに全国的
によく知られていることと判断し、
その文章をここで掲載することは控えます)


それでも、少年の頃からイチロー選手は認識力、
分析力、判断力、計画立案力、意志力、そして、
実行力も兼ね備えた大変有能な少年であったこと
に疑問を挟む余地は全くないと思われます。


これらの点では、私は全く劣っており、
その私がこうしてここで論じること自体がナンセ
ンス。 ではありますが、人の世はときに儘ならぬ
もの……。 このまま、暫しの間、
おつき合い願います。


イチロー選手や偉人と呼ばれる人物特有の力の
ことをここでは『自力』と呼びたいと思います。
個人に由来する能力でり、自らが自らを助ける
ために備わった能力を意味します。


一方で、『他力』という考え方もあります。
いわゆる、他力本願の他力に近いです。
ここでは簡単に、自分以外からやって来
る外部的な作用のことを前提にします。
イチロー選手はタイプ的には、
自力派のように思えます。
恐らく、トレーニングメニューは自分自身で
決めているでしょうし、バットやクラブへの
こだわりも相当に強そうです。


それでも、全く例外的に、イチロー選手が
他力の力よって助けられたのではないか、
と考えられる事例を私は見つけました。
(無理にこじつけた、と同意です)
もしかすると、この事は例外中の例外であり、
大変珍しいことかもしれません。


イチロー選手は愛工大名電高時代には、
甲子園大会に二度出場しています。
一度目は1990年の夏、
二度目は1991年の春の大会。
その二試合での打撃成績は9打数1安打。
打率は.111と低調でした。


一方で、高校三年間の公式戦の通算打率は、
536打数、269安打、打率.501、本塁打19本、
二塁打74本、三塁打28本、盗塁131と超人的な
活躍でした。
(高三夏の愛知県大会では、打率7割を超えてい
たようです。 その試合映像は動画サイトで観る
ことが出来ます)


打率が5割とか、7割とか信じられない数字です。
二塁打も、三塁打も、本塁打も多い!
まさに神技です。


そんなイチロー選手が、甲子園では打率.111?


いったい、どうしたのか?
その謎について、想像を膨らませてみました。


それは、オリックス・ブルーウェーブというプ
ロ野球チームに間違いなく入団するためです。
もっと言えば、仰木彬という稀有な才能を有す
る監督の元でプレーするためでもあると。


もし、イチロー選手が甲子園で活躍し全国的に
名が売れてしまえば、各球団の間で争奪戦が繰
り広げられ、ドラフト会議の末に、
巨人に入団していたかもしれません。
しかしながら、巨人では「振り子打法」がはた
して許されるものでしょうか?
また、仰木監督が見込んだ上でしたように、
登録名を鈴木からイチローに出来たでしょうか?


他にも、オリックスの二軍には、
振り子打法の生みの親とも言われる河村健一郎
打撃コーチが、そして、一軍では新井宏昌打撃
コーチも在籍していました。
おまけと言っては失礼ですが、
後にマリナーズの環太平洋スカウトとなる、
コルボーン投手コーチという人物も当時の二軍
に在籍していました。
それから、神戸で地震があったのも大きかった
と思います。


私には、イチロー選手は何かに導かれるように
して、オリックスに来たのだと思えます。


もし仮に、高校時代、甲子園で打棒が爆発し、
全国的に名も売れて、ドラフト会議で複数指名。
その結果、どこかの人気球団に在籍していれば、
やがては、シアトル・マリナーズへという道が
容易に拓けたでしようか?


高校時代の甲子園での二大会。
信じられないくらいの打撃不振。
その時、イチロー選手にとっては、
『他力の風』が吹いたのかもしれません。
彼にとって、すべては上手く展開したのです。
などと、私はかなり本気で考えております。