イチロー、阪急、あの日の西宮球場Ⅲ
私の関心は、徐々にプロ野球から離れていった。
贔屓のチームも選手もなくなってしまった。
そうして、時は流れ、私は仕事の都合で、関東に住んだ。
もはや、阪急もオリックスも関係なかった。
ところが、1994年、
いやがおうでも耳に入ってきた。
もう一度、不人気球団ゆえの悲愁を味わうのがいやだったのだ。
もしそうなら、好きになってもしょうがない。
まだまだ、安心して好きになれない。
そんなことを考えていた。
この頃、一度関西に帰省したことがある。
私は苦笑して思った。
また、同じことが繰り返されるのか・・・この家では。
私は、とうとう我慢できなくなり、
父には、内緒にしてあった。
知られるのは、やはり恥ずかしかった。
私は、もう三十半ばになっていた。
見に行った。
確かに、見に行ったのだが、不思議なことに、
試合の勝ち負けや、
あの遠投と背面キャッチ。
何事かを打ち合わせるように、お互いに声をかけ合う。
やがて、二人でキャッチ・ボールを始めるのだが、
二人とも実にキビキビとした動きをする。
それだけでも、思わず見惚れるほどだ。
最初は、ごく軽めのキャッチ・ボール。
やがて、次第に熱を帯びたものになり、
お互いに、思い切りボールを投げ合うのだ。
素晴らしい遠投だ。二人とも肩が強くて見応え十分だ。
攻守交替の合間のキャッチ・ボールでさえ、
プロはこうやって魅せるのだ。
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独特のリズムを採りながら、
猫が「動くもの」に跳びかかる寸前の動きによく似ている。
左腕を背中に廻しグラブを開くのはほぼ同時だ。
すると、まるであたり前のように、
その時、スタンドがドッと沸くのだ。
オモシロイ! 素晴らしい運動神経だ。
こうやって野球場に足を運んで観るに値する、
最高のパフォーマンスだ。
私は、右脳だけで十分堪能していた。
子供のように・・・。
家に帰り、冷静になってから驚いた。
この歳になっても、私には、あんな自分がまだいたのだ。
日米で話題になった年だ。
だが、この年、父の身体に異変があった。
精密検査の結果、父は、手術のため入院することになった。
私は、父と母とともに病院に向かった。
この時、父はまだ元気だった。
入院手続きを済ませ、一段落すると、
私は病室にあるポータブルテレビのスイッチを入れた。
それは、相手投手が振りかぶり、
やや内角寄りに向かった直ぐ後のことだった。
頼りなげに振り降ろされたバットは、イチロー選手の腰のあたりで、
恐ろしく速くしなり始め、それを人間の目では追えなくなった瞬間、
快音が響いた。
テレビ画面が小さくて、打球は見えなかった。
それがホームランとわかった。
私は何も言えなかった。 父も何も言わなかった。
これは吉兆だ、私は内心そう受け取った。
父も、恐らくは同じだったろう。
喋ってしまうと、運を逃がしてしまう気がした。
そのことを、二人とも恐れたのだと思う。
それまで、ほんの少しの辛抱だ。
私はそう楽観し、その日は、病院を後にしたのだった。
2004年10月1日(日本時間では、10月2日)、
84年間、誰にも破られなかった大記録だ。
イチロー選手を純粋に賞賛するアメリカのファンにも心打たれた。
オヤジ、見てたか?
オヤジが生まれる前の記録やで・・・!
チームメイトに祝福されるイチロー選手の姿をテレビで追いながら、
私は父にそう語りかけずにはいられなかった。
自由になった父の魂は、
シアトルのセーフィコ・フィールドまで飛んで行き、
生きてるときに想像できたかい?